最近、発達障害やADHD、HSPといった言葉を、自己紹介の一部として使用する人々が増えていることに気づきました。
もちろんそういった概念があることは知っていますし、私も簡単なチェックをしてみたこともあります。
ただ気になったのは、なぜこんなに他人にそれを示したがる人間がいるのかということ。
調べてみて「ファッション発達障害」という言葉があることを知りました。
今回は、この内容について私の考えを示します。
この記事は自身の症状を受け入れ、立ち向かっている方々を非難するものではありません。
記事内では文字数の都合上、「発達障害」に統一していますが、「ADHD」や「HSP」などに置き換えて頂いても結構です。
発達障害は自己理解と受け入れの一部であり、自己主張する手段ではない
自分が発達障害だと知って、どう考えるでしょうか。
それを受け入れた上で、どう対処すれば克服できるか、むしろその特性を利用して生活できないかといったことを検討するのが理想だと思います。
しかし人間である以上、機械のように割り切ることは簡単でないでしょう。
そういった人が、それ自体を発達障害の影響ということにして、自分を慰めることは決して悪いことではないと思うのです。
自身のうちにとどめておけるのであれば。
問題は他者にそれを示すという行為にあります。何が目的なのでしょうか。
- 言い訳に使いたい
- 慰めてもらいたい
- 自己憐憫・自己陶酔に浸りたい
こういった気持ちがあるのだと思います。
互いに励まし合うコミュニティを作ったり、親しい人にフォローを依頼するなら別ですが、わざわざ他人に伝える必要がありません。
これらを指摘するとおそらく、「お前にはわからない」と怒り出すか、ガッカリしたようにどこかへ行ってしまうのでしょう。
本人は確かに辛いのでしょう。
ですがどう反応するかは受け取る側次第、つまり別問題なのです。
相手に期待する自己中心的な考えがあるので、こういった行為をしてしまうのです。
これさえも発達障害の影響だと言うのでしょうか?
また実際に発達障害と医療機関で診断された人間が、自称する人間を非難する声をインターネットで見かけますが、どちらも大差ありません。
発達障害を他人にアピールしても自分が損をするだけ
前の職場の同僚で、指摘を受けたときに「俺、発達障害なので」と返した人間がいました。
その後他の同僚達とそのことについて話しましたが、彼の反応を非難する声ばかりでした。
言い訳にしか聞こえなかったからです。
本人には別の意図があったのかも知れませんが、そんなものは知りません。
どう評価するかは周囲の人間次第だからです。
別の下手な言い訳をするのであれば、まだ可愛げがあったでしょう。
しかし社会的にセンシティブな内容に訴え、その場を凌ごうとする小賢しさが、余計に印象を悪化させたのです。
このように他人に訴えるメリットは皆無です。
たまたま相手が同じ発達障害であったとして、受け入れられたとしても、この意識のままでは傷の舐め合いで終わる可能性が高いでしょう。
それを望んでいるのであれば、否定することはしませんが。
発達障害は目に見えず、数字にも置き換えられない
発達障害は確実に存在しますが、可視化できるものではありません。
直接生命の危機に繋がる疾患でもないです。
また、もし全国民が診察を受ければ、発達障害と診断される人数は跳ね上がるでしょう。
だからこそ軽く見られがちなのです。
診断チェック項目は程度の違いさえあれど、誰にでも当てはまるものが多くあります。
大体のあたりはつけられても、近い症状の人間のどちらがより重いかなんで分からないでしょうし、項目によって異なる場合も少なくないはずです。
だからこそ苦労するのだと思います。
しかしそれを嘆いたところで現実は何も変わりません。
症状の自覚があるのなら、立ち向かえばいいし、社会の認知が足りないと思うのなら、啓蒙活動に励めばいいのです。今は誰でも発信できる時代です。
それができないというのなら、ずっとその状態でいればいいと思います。
もしかすると誰かが救ってくれるかも知れません。
まとめ
今回は「ファッション発達障害」について、自分なりに考えをまとめました。
少々キツめの内容になりましたが、これは私自身に対する戒めの記事でもあります。
困難を乗り越えて自己を受け入れることが、成長の第一歩だと私は考えます。
それは時には不安定かもしれませんが、それでも前に進む価値があると信じています。