平穏が戻った職場で、俺はYに想いを伝え、
そして──少しだけ、幸せな時間を過ごしていた。
・・・だが、終わりの足音は、静かに、確実に迫っていた。
俺が、知らないふりをしていただけで。
※まだお読みでない方はこちらからどうぞ
👉38歳童貞の初恋──割れたお椀と俺の初恋(前編)
👉38歳童貞の初恋──割れたお椀と俺の初恋(中編)
(補足)現体制と旧体制
ここで、必要な人間関係を整理しておく。
記号だらけで分かりにくくなってきたな💧
だが俺の初恋の終わりを語るうえで、必要な情報だ。
なるべく分かりやすく書くので、最後まで付き合ってくれると嬉しい。
不在:Dの追放による
俺:誕生日をまたぎ、39歳童貞へ
A:仕事ができず、このあと来る新支配人に目をつけられることになる
Y:俺の初恋の人
料理長:分別ある強い味方
S(副支配人):支配人不在の中、現場を実質的に取り仕切っていた。落ち着いた性格で人望も厚く、Yの精神的な支えでもあった。
M:Yと仲が良かったアネゴ気質の女性。Sと同年代。
Y:俺の初恋の人
料理長:現体制の料理長と同一人物。料理の面から現場を支える要
※いずれの体制にもあと数人のメンバーが存在するが、話にかかわらないので省略する。
旧体制の終焉
――この旅館には、かつてまったく別の体制があった。
もともと旅館を支えていたのは、副支配人のSを中心とした体制だった。
フロントには姉御肌のM、清掃にはY、料理場には料理長がいて、みな現場を熟知していた。
Sは落ち着いた性格で、冷静かつ的確に判断できる人物。
職位こそ副支配人だったが、実質的には支配人として旅館全体を取り仕切っていた。
本社に掛け合ってYや他のパートの賃上げを実現させた実績もあり、現場からの信頼は厚かった。
Yより2歳年上で、穏やかながらも芯のある男性。料理長いわく、離婚して今は一人とのことだった。
そんなSとM、Y、料理長の4人で作り上げていたチームは、息の合った理想的な体制だった。
とくにYにとっては、仕事も人間関係も充実した日々だったに違いない。
だがある時、新支配人がやってきて空気が変わる。
現場との溝が生まれ、やがてMが体調を崩して離脱。
Sも異動となり、その後新支配人も体調を崩して旅館を去った。
――こうして、かつての理想的な体制は崩れた。
本社はそのつど、他の旅館から応援をまわして対処していた。
だが新体制の構築が必要と判断し、
俺・副支配人D・Aの3人が新たに着任した。
このとき、旅館はすでにどこか冷えきっていた。
Yの、出会った頃の態度
そして俺は、勤務するなかで──
かつてこの旅館に存在していた“旧体制”のことを、少しずつ知っていった。
そして分かった。
──Yが最初に見せていた、どこかとげのある態度の意味を。
あれは、新しくやってきた俺たちに、
かつて自分たちが築き上げたものを踏み荒らされたくなかった、その気持ちの表れだったんだと思う。
ましてや、それが心を許していた仲間たちとの絆であれば、なおさら。
Y自身もしきりに、「あの頃が一番安定していた」と話していた。
料理長からも、当時の体制と彼らの仲の良さについて聞かされたことがある。
──実は俺はYに想いを伝えたで、Sにかなり嫉妬をしていた。
けれど俺は、それを“もう終わった過去の話”だと思い込もうとしていた。
(フラれたけど、Yの一番近くにいるのは俺だ。)
・・・そう思っていた。
境界線を越えてしまった俺
――これは、綺麗な物語ではない
告白から少し経った頃のことだ。
俺は彼女との距離が縮まったと“思い込んでいた”。
好意を伝えた手応えがあったような気がして、誕生日にはプレゼントまでくれた。
LINEのやりとりも続いていたし、笑顔を向けてくれることもあった。
――だから、許されると思っていた。
何度か、軽く彼女の頭に触れたことがあった。
たわいない会話の中で、無意識に──いや、意識していなかったふりをして手を伸ばしたんだと思う。
そして、実際のところ──
彼女は最初から完全に拒んでいたわけじゃなかった。
一瞬避けるような素振りはあったけど、笑って流してくれた。
俺はそれを、「大丈夫な範囲なんだ」と勝手に思い込んだ。
……でもきっと、あれは我慢だったんだ。
「この人なら分かってくれる」と、そう思っていたのかもしれない。
だけど、それは彼女の優しさであって、同意ではなかった。
ある日。
首筋に手が触れた瞬間、彼女ははっきり言った。
「さわるなっ!」
だがその声は、怒鳴るようなものじゃなかった。
どこか、ひねり出すような声だった。
彼女の顔も、怒っているというより──どこか辛そうだった気がする。
……今にして思えば、あれは怒りじゃない。
我慢の限界を越えた末に、ようやく絞り出した“やめて”のサインだった。
それを言ったあとも、彼女は少し沈んだように黙っていた。
きっと、俺にそう言わなきゃいけなかった自分にも、疲れていたんだと思う。
俺は、踏み込んではいけない領域に入っていた。
「好きだから」なんて、そんな理由で、相手の身体に触れていいはずがない。
彼女は俺の気持ちを知ったうえで、今までの距離感を保とうとしてくれていた。
……俺のことを信じて、自分の弱さもLINEで見せてくれた。
異性としてどう見ていたかなんて、分からない。
でも、この人なら受け止めてくれるかもしれない──そう思ってくれていた瞬間も、あったんじゃないかと思う。
……それなのに、俺はその期待を裏切った。
「誠実な人じゃなかったんだな」
そう思わせてしまった気がしてならない。
この出来事を境に、彼女のLINEの返信はそっけなくなっていった。
スタンプだけで済まされたり、一言だけの返事で終わったり。
それでも、俺は「まだ大丈夫だ」と思っていた。
繋がりは続いている。笑ってくれることもある。
どこかで、希望を捨てきれなかった。
でも──
この文章を書いている今の俺なら、はっきりと分かる。
あのときの「さわるな」が、彼女なりの最後の警告だったことに。
……でも俺は、その意味を、見ないふりをしていた。
本当は書かないつもりだった。
でも、それは誠実じゃないと思った。
筋が通らないし、都合よく「触れてないこと」にしても、俺の中で意味がない。
終わりの始まり
新支配人の着任
4月以降、しばらく支配人不在のまま旅館は回っていた。
Dが追放され、実質的に料理長が現場を仕切る日々。
だが、本社もさすがにその状況を放置はしなかった。
新たな支配人を送り込むことが決まり、その名が現場に伝えられた。
──N。
Nは、かつてこの旅館で支配人をしていた人物だった。
つまり、呼び戻されたということだ。
Yはその名前に反応を見せた。
以前から面識があったようで、彼女から過去の話を少しだけ聞いた。
俺は静かに着任の日を待った。
──そして6月。Nは現れた。
Dと同じ50代の体育会系ではあったが、
その口調と指示には、確かな経験に裏打ちされた重みがあった。
俺はNのつくる新しい体制のもとで、
もう一度、ここからやり直せる気がしていた。
Aの失墜とSの名前の再来
Nが着任してからも、フロントには変わらずAと俺がいた。
だがこのAという男──何と言えばいいか……本当に、仕事ができなかった。
接客の基本動作すらままならず、報連相もずさん。
お客様の前ではおどおどし、現場の仕事にも関心がないように見えた。
Dが副支配人だった頃は、最初こそ厳しく指導していたが、やがて“放任主義”に切り替わった。
だがNは違った。
Nは細かな業務一つひとつを確認し、明確な改善を求めてきた。
Aはそれに応えられず、ついには本社の人間を交えた個別面談が実施された。
──現場の誰もが、もう気づいていた。
Aの交代は、時間の問題だと。
そして、その頃からだった。
「Sを戻す」という話が現場にちらほら出はじめたのは。
Yの俺に対する態度が、明らかに変わり始めたのは。
俺は、彼女の顔色をうかがうようになっていた。
そして心の中で、こんなふうに考えていた。
(……俺が、いつまでも彼氏みたいな顔をして、近くにいたからだろうか)
手を出して、自分で溝を広げておきながら、そんなバカな思考でいたんだ。
――今思えば、俺はすでに恋心と性欲で狂っていたんだと思う。
かつてYは、スクロールしないと読みきれないほどの長文をLINEで送ってくれたこともあった。
でも最近は、一言だけの返事か、既読スルーで終わることが多くなった。
そんなことばかりを気にしてきた。
拒絶のあとに
俺はまだ、どこかで「関係は修復できる」と信じていた。
でも・・・それはただの願望だった。
――「さわるなっ!」
あれは、最後の警告だった。
でも、俺はまだ諦めきれていなかった。
その日から彼女のLINEは素っ気なくなり、目も合わなくなっていった。
でも、俺はまだ希望を持っていた。
彼女が怒鳴らなかったこと。まだ普通に接してくれていたこと。
そういう些細なものを、希望に変えていた。
Sのことを語る彼女の顔
不安が膨らむたび、俺は清掃中の彼女のところに足を運ぶようになった。
特に用があるわけでもないのに、ただ会いたくて、話したくて、彼女のいる場所を探した。
彼女は変わらず丁寧に接してくれた。
でも、俺にはわかっていた。
俺の中の焦りは、もう隠せないほど膨らんでいた。
そしてある日──俺はついに、あえてSの話題を出してみた。
「Sさんって、仕事できそうですよね。穏やかだし、優しいし……」
すると彼女は、こう答えた。
「優しいだけじゃありませんよ。」
そのとき俺は、確かに見た。
その顔は、俺に向けられるいつもの顔じゃなかった。
どこか遠くを見るような、信頼と尊敬が滲むような目。
──俺の知らない、彼女の顔だった。
「・・・へえ、そうなんですかー。」
平気なふりをするのが、やっとだった。
唇の端を引きつらせながら、なんとか笑ってみせた。
……多分、あの頃からだったと思う。
俺が、本格的に狂い始めたのは。
始まった暴走
俺は狂っていた。
それからの3か月ほどは、彼女との関係が崩壊に進んでいった。
だがLINEを遡ってみても、時系列まではハッキリと思い出せない。
だからこのパートに限り、順番に関係なく、記憶の限りあったことをまとめていく。
冷静になって振り返れば──
これらがボディブローのように・・・
いや、違うな。
全部、右ストレート。
何発も、真正面から打ち込んでたんだ。俺が。
そして彼女の心は、確実に、そのたびに後退していった。
パートのくせに
ある日、彼女はこう言った。
「あの頃が一番、現場が安定してた気がするんですよね」
Sがいた頃。Mがいた頃。
つまり──俺がいなかった頃の話だ。
俺は、カッとなって言った。
「……パートが、現場の安定とか言うのも、なんか変な話だよな」
正直、彼女がどう返してきたかは覚えていない。
無視されたのか、軽く流されたのか──とにかく、空気は確実に変わった。
もちろん、正面から「パートのくせに」なんて言ったわけじゃない。
でも、あの言い方は、どう聞いたってそういうニュアンスだった。
……そして、そのやりとりの近くには、“他のパート”がいた。
俺は全く気づいていなかったが、その人にもしっかり聞かれていたらしい。
後日、Yがそれを指摘してきた。
彼女の真意は違ったのだろう。
だけど、俺にはイヤミのように聞こえていた。
こういう、ほんの一言が、人間関係を壊していく。
まるで小さな亀裂が、気づけば全体に広がっていくように。
嫉妬は言葉ににじみ出る
また別のある時、俺は彼女の反応をうかがうために、前体制の話題をあえて振った。
「前の体制のときのほうが良かったんですよね?」
なんて遠回しな言い方で牽制球を投げた。
彼女の反応は予想通りだった。
俺は嫉妬から我慢できずに行った。
「”なかよしこよし”でやったらいいじゃないですか!!」
それは俺の言葉だった。
明らかに冷たく、意地悪なトーンで。
彼女の目は怒ったような、悲しそうだったような、そんな気がした。
そして、俺は逃げるように、その場を後にした。
ちいさな手
パントリーで作業中の彼女に、俺は脈絡もなく言った。
「Yさんって、小さな手してますね。」
俺は、そのとき触れたくて仕方がなかった。
どこかで彼女との接点を探し、きっかけをつくろうとしていた。
「俺の手の半分くらいじゃないですか? ほら……」
そう言って、自分の手を彼女の前に差し出した。
でも──彼女は、それに反応しなかった。
スルーされた。
無言のまま、洗い物を続けた。
……当然だ。
なんて気持ち悪いことをしていたんだ、俺は。
指乗せの午後
ある日、彼女が仕事を終えた後のパントリーで、洗い物をしていた。
俺は、何を思ったか、その横に立った。
言葉もなく、ただ隣にいる。それだけで彼女は少し緊張していた。
……俺は、彼女の頭頂部に人差し指を、そっと乗せた。
「……ぶったたきますよ?」
彼女は少し間を置いて、そう言った。
俺は軽く笑って、
「じゃあ、今日はもう帰りまーす。」
そう言ってその場を離れた。
そして、彼女も少し笑っていた。
──俺は“まだ大丈夫だ”と思ってしまった。
それでも、俺はLINEを送った
彼女との距離は、日に日に離れていった。
返事は短くなった。
スタンプだけ、一言だけ、そして──既読スルー。
それでも、俺はときどきLINEを送っていた。
節度は守っていた。
対面時の暴走とは裏腹に、相手の負担にならないように、頻度には気をつけていた。
……だが、それが苦しかった。
会えない時間が長くなると、不安が膨らみ、
“何か”を送りたくなる衝動に駆られた。
だけど、そこをグッと堪えて、間隔を空けて、
考え抜いたメッセージだけを送るようにしていた。
あと、俺にはひとつだけルールがあった。
追いLINEはしない。
返事が来ていないのに、再度送ることはしなかった。
「返事まだ?」なんて絶対に言わなかった。
それだけは、越えてはいけない境界線だと、どこかで分かっていた。
でも──
だからこそ、返信が来るまでの時間が、永遠のように長く感じられた。
既読がつけば、何度も見返した。
既読がつかなければ、スマホを握りしめたまま、時間だけが過ぎていった。
頭の中には、あの「ぶったたきますよ?」のやりとりが残っていた。
あの笑顔が、“まだ大丈夫”だと思わせていた。
──けれど、本当は気づいていた。
もう、とっくに終わりが始まっていたことに。
俺はもう、2度と楽しかった日々には戻れないと気付いていたんだ。
最後の一撃
異動通知
そして──いよいよその瞬間がきた。
Aが去り、Sが来る。
その入れ替わりの知らせを支配人のNから聞いたとき、
俺はフロントの椅子に沈み込んだ。
……終わった。
何かが、音もなく崩れていくのがわかった。
Sが戻ってくる。
彼女が、Sと一緒に笑っている光景が、頭の中ではっきりと浮かんだ。
その時、何かが決壊した。
ほんの一瞬だけ迷って、俺はNに言った。
「……俺、辞めます。」
Nは少し驚いたようだったが、すぐに、ためらいなく答えた。
「よし、分かった。」
たったそれだけの会話だった。
あまりにも、あっけなかった。
でも、俺には──最後の一撃だった。
本社からの承諾は数日後にすぐ降りた。
手続きは淡々と進んでいき、何事もなかったかのように終わっていった。
……だが、本当の地獄は、ここから始まったのだった。
退職までの地獄の日々
Sの着任
Sは以前の印象通り、非常に穏やかな性格で、俺に対しても丁寧な態度を崩さなかった。
年齢は俺より8歳上。落ち着きと余裕がある人だった。
仕事ぶりも申し分なく、長らくAと一緒にいたせいか、正直「頼もしい」と思っていた。
なぜか俺は、Sのことが嫌いになれなかった。
──だが、やはりYとのことが気になって仕方がなかった。
Sの復帰は、Yにとって明らかに特別な意味を持っていた。
それが、言葉にしなくても伝わってきた。
せっかくの休日も、旅館の中で彼女とSが楽しそうに話している姿を想像してしまい、まったく心が休まらなかった。
Sが休憩に出たと聞けば、「いまYのもとに行っているんじゃないか」と思い込み、気が気でなかった。
仕事に集中できず、些細なことでミスをしそうになることも増えていった。
冷静になろうとしても、心が言うことを聞かなかった。
──そのくらい、俺は追い詰められていた。
眠れない日々
―――2023年、9月末。
俺の心は、もう壊れかけていた。
……眠れない。
布団に入っても、彼女とSのことが頭から離れなかった。
右へ、左へ、寝返りを打ち続けながら、スマホの画面を見つめる。
そこには、かつての彼女とのやりとりが並んでいた。
楽しかった日々のLINE。
何度も読み返しては、胸の奥がじわじわと焼けるように痛んだ。
頭の中は、最悪の妄想でいっぱいだった。
休日、家族を送り出した彼女がうれしそうにSの家に向かう。
彼は彼女を部屋へ招き入れ、ふたりで笑い合いながら語り合う。
彼女はやわらかい表情でSを見つめ、やがて──抱き合う。
……そんな光景が、何度も頭の中で再生された。
ストレスで、全身がピリピリと痺れていた。
体が重く、頭も働かない。
それでも、7時にはフロントに立たなければならない。
それなのに、時計の針が5時を回る日もあった。
事務所の2人
その日、俺はフロントに座っていた。
手元のPCを見つめながらも、意識は別のところに向いていた。
すぐ左手──のれんの向こうの事務室にはSがいた。
彼はPCに向かって作業していた。
仮に、俺が北を向いて座っていたとすれば、
Sは西方向(左側)を向いて座っていて、少し視線を横に向ければ、
事務所の様子も、Sの背中も、すべて見えた。
――そんな中、Yがやってきた。
彼女は俺の存在に気づいていたはずだ。
それでも、まっすぐSのもとへ向かい、
彼のすぐ右横──わずか10cmほどの距離に立って、話し始めた。
小さな声で、穏やかに。
内容までは聞き取れなかったが、
空気が親密だったことだけは、はっきりと伝わってきた。
ふたりは、俺の視界のすぐ端で並んでいた。
俺がいることは、ふたりとも分かっていた。
それでも、距離を取ることはなかった。
俺は、無表情でいるのがやっとだった。
全身がびりびりと痺れていた。
手も足も、自分のものじゃないみたいに感覚が薄れていた。
ただ、PCの画面を見つめるふりをして、
横目で、その光景を耐えるように見ていた。
(……早く、離れてくれ!)
心の中で、何度もそう願っていた。
やがてYは、「じゃあ、帰るで」と言って事務所を出ていった。
その背中を見送りながら、俺の心は、静かに崩れていった。
何も言えず、何もできなかった。
ただそこに、無表情で座っていただけだった。
宴会場の2人
ある日の昼下がり、Sが休憩に出た。
その時点でYも館内に残っていて、
俺は──不安に駆られた。
(・・・今、ふたりきりでどこかにいるんじゃないか)
俺はフロントを空けて、館内を探して歩いた。
まだチェックイン前の時間帯だったから、問題はなかった。
……いや、もうそんなことはどうでもよかった。
そしてそれはすぐに見つけられた。
2階へと足を運ぶ。
そして、宴会場のドアを開けた。
――そこに、いた。
Sは畳用のテーブル席に座っていた。
二人の距離は5mほど空いていた。
Yは、外の駐車場を見ながら独り言をつぶやいていた。
2人で居るのに、Sに背を向けて。
何かをごまかすように。
俺の気配に気づいたのか──それとも本当に、たまたまだったのか。
それはもう分からなかった。
俺はSに
「あ、ここで休憩してたんですか」
と声をかけるのがやっとだった。
俺はその後、勝手口から帰るYを追い出すように、
「さあ、お楽しみの時間は終わりですよ」
と言った気がする。
覚えていない。
とにかく、心の中はぐちゃぐちゃだった。
──その後、俺は彼女にLINEを送った。

ずっと前から気づいてましたよ
でも私がいるときはせめてやめにしてもらえませんか?
もうすぐ居なくなりますんで。
確かに心ズタズタにされちゃいましたね。
もう分かったので、辛いので。
26日までは勘弁してください。
彼女からの返信は、たった数行だった。

別に何も…
洗濯しててたまたまSさん見付けただけです💧
極力、存在消します💨
……もう、俺たちは壊れていた。
嫉妬しちゃいますよ
退職日が見えてきた頃、俺は──ついにSに言ってしまった。
その日は俺が早番、Sは遅番。
3時間ほど、一緒に仕事をしていた。
チェックアウトも終わり、事務作業や風呂の準備を進める、静かな午後だった。
午後4時。俺が帰る時間になったときだった。
ふとした間に、俺は口を開いた。
「Yさんって、Sさんの前だとテンション高いですよね。」
Sは少し驚いたような顔をして、それでも穏やかに笑って答えた。
「え?そうですか?」
その笑顔に、俺は無表情で続けた。
「……さすがに、嫉妬しちゃいますよ。」
Sは、それ以上何も言わなかった。
何を思ったのかも分からない。
気まずかったのか、それとも気づいていたのか。
俺は少しだけ間を空けて、笑顔を作りながら言った。
「じゃあ、お先に失礼します。」
それだけ言って、その場を離れた。
──もう、何も抑えきれていなかった。
その後、支配人のNの気遣いで、俺はなるべく多くの有休を取らせてもらった。
退職日までは、ほとんど出勤しなくて済んだ。
おかげで、ゆっくりと休むことができた。
毎日、職場に顔を出して、いちいち気をもむ必要もなかった。
Nには──本当に、感謝している。
割れたお椀と俺の初恋
洗い場の2人
――2023年9月23日
最終出勤日の2日前。
翌日と最終日は彼女がおやすみだったので、実質俺にとっての最終日。
チェックアウト作業を終えると、俺は一緒にいたSにフロントを任せ、厨房で朝食後の食器洗いを買って出た。
フロントにいたら、いつYが隣の事務所に現れるか分からない。
そしてまたSと仲良く話し始めたりしたら、俺はもう耐えられなかった。
逃げるようにして厨房へ向かった。
(こうやってここで食器を洗うのも、今日で終わりだろうな)
厨房の洗い場で作業をしながら、そんなことを考えていたと思う。
・・・・・そこに、Yが現れた。
俺は彼女の姿を見てドキッとした。
Yは仲が良かった頃の明るい声で、
「手伝いますよー!」
と一緒に食器を洗い始めた。
今思えば、彼女は最後くらい、わだかまりなく別れたかったのだろう。
だが俺は・・・
「別にいいです。持ち場に戻って下さい。」
と彼女の方を見ずにそっけなく答えた。
それどころか、
(フロントにSさんがいますよ。行ってきたらどうですか?)
……そんな皮肉まで、喉元まで出かかっていた。
――だけど言わなかった。
言えるはずがなかった。
本当はうれしかった。
彼女が来てくれた。
そして久しぶりに一緒に並んで食器を洗っている。
かつてあんなに幸せを感じることができた2人だけの時間・・・。
だけど今は・・・。
きっと彼女も勇気を出して来てくれたはず。
俺の態度と言葉に傷ついたのだろう。
隣で食器を洗うその動きが、明らかに少し早くなった。
―――そして次の瞬間、
彼女の手からお椀が滑り落ち、洗い場のコンクリートの上に落ちた。
それは朝食用の、プラスチックでできたみそ汁のお椀だった。
陶器じゃない。
大丈夫だと思ったが、それは割れてしまった。
この瞬間、俺は恋が終わったのを感じた。
・・・自分で言うのもなんだが、まるでドラマのワンシーンのようだった。
彼女は素早く手元の仕事に一区切りをつけると、無言でそれを拾い上げ、ゴミ箱にポイっと捨てると、足早に俺のもとから去っていった。
そしてもう戻ってはこなかった。
最後の瞬間まで、俺は素直になれなかった。
別れの手紙
Yの後姿を見送った俺は激しく後悔した。
(彼女は来てくれたのに、俺はくだらない意地にこだわって・・・。)
だが今から追いかける勇気もなく、心の整理をつけることもできず。
・・・俺は彼女に最後のLINEを送ることにした。

ずっとこれまでのことを思い返していました。
私はあなたを純粋に好きでいると思っていましたが、違っていたようです。
心のどこかで見下し、善意を好意と勘違いし、都合のいい存在として見ていました。
それでも大目に見てくれたあなたに、幼稚で狂った嫉妬心をぶつけ、傷つけました。
震えながら連絡先を聞いたことや、何度もスマホを確認してLINEの返信を待っていたこと、清掃の邪魔をしながらも一緒に居られて心が満たされたこと、頂いたお菓子や誕生日プレゼントを見てはしゃいでいたこともすっかり忘れていました。
あなたがいなければ、こういった気付きを得られないまま年齢だけを重ね、別の場所で更に大きな過ちを犯していたかも知れません。
恋愛することの楽しさや辛さを知ることもありませんでした。
私はYさんに出会えて幸せでした。
1年間ありがとうございました。
それからごめんなさい。
私は明るく、優しく、負けず嫌いで、凛としたYさんのことが大好きでした。
どうかこれからも元気でいて下さい。
さようなら。
改めて読んでみても長いし、重い。
だが当時の俺が本気で考えた文章だ。送る前に何度訂正したか分からない。
彼女はこんな俺に返事をくれた。

いろいろと勘違いされていることがあるのかもしれませんが…
まだお若いのでちゃんとした自分の居場所を見付けて、誇りをもって頑張って下さい✨
何が勘違いなのか、Sとの関係のことなのか・・・。
それとも俺がひとりよがりになっていたことなのか・・・。
いろいろあるようだが、もう俺は知ることができない。
いずれにしても、本来なら無視されたっておかしくないのに、彼女はこうして返信をくれた。
あえて「自分の居場所」「誇り」という言葉を入れてくれたのも、形式だけの返信ではなく、俺のことを考えてくれたのが伝わってくる。
俺は自分の人間の小ささと、改めて彼女の器の大きさを思い知らされたのだった。
彼女と仲良くなりたくて交換したLINEは、
最後まで、俺に多くのことを教えてくれた。
そして今、当時の記録として──俺の執筆を支えてくれている。
唯一の救い
退職の少し前、支配人のNと話をする機会があった。
俺の後任は、かつてこの旅館に勤めていたMという女性だと聞かされた。
──つまり、Yにとっては、かつての理想の職場が戻ってくることになる。
結局、Dも、Aも、そして俺もいなくなった。
すべてが元通りになるような形だった。
俺は思わず、Nに言ってしまった。
「……結局、元のさやですか。」
Nは少し間を置いて、こう答えた。
「元のさやじゃないよ。俺がいるから。」
彼は、俺の恋のことなんて知らない。
ただ自分の役割に誇りを持って、そう言ったのだろう。
──それでも、あの言葉が、俺には唯一の救いだった。
完全に元に戻るわけじゃない。
俺はもう、そこにしか希望を見出すことができなかった。
終わりに――最後のLINE
Yへの気持ちは、まだ残っていた。
それは強い未練と、そして罪悪感だった。
――俺は、4か月後に彼女に最後のLINEを送ることになる。
それが本当に正しかったのか、それともただの自己満足だったのか──
今も、答えは出ていない。
だがこれは、また別の記事で語ろうと思う。
終